東京の南の玄関口でもある品川駅と言えば、多くのビジネスマンや観光客、其れに各国からの来客である外人さんの拠点でもあり、最近は新駅構想やリニア新幹線の新駅構想もあります。
ところがこの品川駅といえば品川区内にありそうですが、実は東京は港区の高輪というところの所在になるのです。
其の港区高輪とえば地図上でも南端の地区になりますが、一昔前までは東京湾を望む景勝地でもあり高輪は高縄とも書いたらしいです。
当時は台地沿いは古くからの住宅地で,赤穂義士の四十七士の墓で有名な芝高輪の泉岳寺や高輪大木戸跡などの史跡がありますが、今現在ではJR品川駅前は高輪台地区とも言われて、プリンスホテル系列の建物や高層ビル,スポーツセンターなどが建ち並んでいます。
一方、品川駅の東側は現在は港区の港南地区と言っており、近年では大幅に埋立て等が進んで新都市開発がなされて巨大ビルが林立していますが、昔は品川駅、又、お隣の北品川の駅前あたりまでが品川の湊、品川沖とまで言われたところで、海岸が間近に迫っていたところでもあります。
こんな駅で海を見ながらぼんやりしていたいものだ……と思ったらこれは130年前の品川駅ではないか。品川なんかにいたら仕事の方が追いかけてくる。もうタイムスリップしかない。 pic.twitter.com/JtZsFk9hfK
— TAQUENACA, Aquirax (@aquirax01) 2019年3月14日
江戸末期の嘉永年間にはペリー来航により江戸幕府が危機感を抱いた為に、現在の港南地域にあたる地区にお台場(品川海砲台)を江戸防衛のためを建設されたする記録もあります。
又、古典落語のお題目に有名な「品川心中」がありますが、男女が無理心中で飛び込んだのは品川の湊であったとされています。
この品川沖合というのは実は砂浜の遠浅であったとされ、心中で飛び込んだ沖は膝ぐらいまでの深さだった、というオチもあります。
万延元年(1860)1月18日、日米修好通商条約批准書交換遣米使節が乗船したポーハタン号が品川沖を出発。軍艦奉行木村芥舟(かいしゅう)、軍艦操練所教授方頭取勝海舟らが乗り組んだ随行艦咸臨丸は、これに先立ち1月13日出航。画像は明治政府の芥舟の叙位裁可書。https://t.co/g3UTvKYUwU pic.twitter.com/x18rPfYJLW
— 国立公文書館 (@JPNatArchives) 2019年1月18日